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液体と固体

 ある人とCDの貸し借りを行なった。  借りたCDは日本語のロックばかりで、貸したCDはキセルや青葉市子など日本人もいたが、OWENやMBV、SSLYBYなどの洋楽と、村上春樹の一番有名な小説も混ぜておいた。  つまり、「お互いの好きなものを共有したりして価値観みたいなものを広げよう」みたいなノリである。  しかし借りたCDを聞いて呆然とする。歌ってるやつの日記のような歌詞がグサグサと刺さりまくる。違和感。この違和感を消すべく、ギターやリズムに耳をすます。うん、日本語に耳を傾けずメロディでしか認識しないことで聴けるようになっていく。  一方で、日記のようでない、普遍的、もしくは意味のないこと、はたまたそこから滲み出るものを感じさせるようなものは問題なく聴ける。そもそも日本人が英語で歌うものを好まないし、日本人の音楽も少なからず持っているので、上で書いたような違和感に自分でも驚いたというか。    上で書いたような「違和感を感じた音楽」というのを僕は中高生の時代に所謂洋楽で済ませてきたんだと実感した。おそらくウィーザーやグリーンデイ、オアシス、レディオヘッドあたりをシングアロングすることでロックを聴くものが必ず通るべき道を経てきたのだと。  こないだ貸し借りしたものを返すべく会ったのだが、村上春樹は読んだかと聞くと「読んでない」と。「2、3行読んだだけでダメ。内容がよく入ってこないし、移入できる気もしなかった」と。「何が言いたいのかよくわからない」。この手の感想はよく聞く。しかし最後に「なんだか外国語を読んでいるような感じ」という感想があったので、なんかいろいろと繋がったというか。  つまり僕が村上春樹を好きなのはおそらく「外国語のような日本語」で書かれているせいなのかも知れないと。そして何かを徒然に書いているようで、そこから「滲み出てくる」人間の普遍的な愛や悲しさや優しさをほんの少しでもすくい取れることに至上の喜びを見出すからであろうと。与えられたのではなく、自分がそこにあるなんでもない「塊」から感じ取ったという事実がうれしいのだと。  こういう読者の経験は村上春樹の小説の書き方に起因しているかも知れない。間違っているかも知れないけど「自分の中の井戸のようなところに奥深く降りていって、そこで何かが動き出すのをひたすらに待ち、それが動き出したら