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眠れないまま朝を迎える

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+++ Playing Now +++ R.E.M. / UP R.E.M.解散のニュースが飛び込んできて、驚いて、その衝撃で眠れんくなって、PCの前に座って、ブログを前のプラットホームに戻そうかどうしようか考えておる。 でもデザインいろいろいじれるのいいな、とか思ってやっぱこっちを更新している。 でも前のところのアーカイブを少し覗くとけっこう懐かしかったりもする。んで思考傾向の変化とかも見れて面白い。だから結構アーカイブ残ってる前のやつに戻そうかと思ったり。そんな朝。 あーどうしよ。

ひっさびさ、ここ

 もっぱらツイッターばかりで、きちんとした文章などから遠ざかっているわけですが、今こうやって文章を書こうと思った瞬間に思いましたが、それは「詰めていくことが面倒」という感情。バラバラなまま、バラバラな文章で投下していくツイッター。バラバラなものを、整理整頓していって見やすくしていって、それを眺めながら書いていくのが文章、なのだなと気付いたり。まあツイッターしている人たちがみんな「バラバラなものをバラバラなままに」かどうかは知りませんけど。  でも今現在を流れている空気としてはやはり「バラバラなものをバラバラなままに」という空気なのかも知れません。自分がやっているせいも多分にあるけども、「ツイッター的」なもので世の中決定していっている気がする。やってない人には別のものが世の中を決定していると思っているんだろうけども。  たださ、ある事件が起こる。もちろんツイッター上で話題になる。ああしろ、こうしろと声高に叫ぶ。山火事のように広まっていく。翌日や翌々日、その通りになる。  そりゃ嬉しい部分もある。これぞ民主主義だぜ、とか。国民が何をわめいても叫んでも響かない、てことだって世の中見渡せばあるんだし。でも、民主主義、であるためには国民の一人一人の民度とか、一人一人のレベルみたいなものが大きく影響すると思うの。  欧州はデモが多いし、政府も割と国民の動向を伺うし、英国も失業手当とか充実してるし、なもんでここ日本でもデモが頻発しだし、おとなしい国民だった我らが声を上げる、というのもいいものだと思うが、一人一人の文化的レベルていうのは、そりゃ単純に比較することは無理だろうけど、どうなの?ってのも思う。  だいぶ前に「経済のことを考えるならば、国民全無能化を行ない、広告による煽動をしやすくするのが一番」みたいなことを書いたが、割と今それって成功してきてると思う。針の穴を探すような昨今のビジネスモデルでは、人間に我慢なんてこれっぽっちも要求しない。逆に無理矢理「気付かないうちに我慢してるようなことってないかな?」なんて探す始末。「あ、あれ我慢してたわ」となり、それを解消するための商品を買い求める。  こういったことを繰り返していくと当然ストレスに対する耐性がみるみるうちに無くなっていくわけで、その影響は完全に子どもに出始めている、というわけ。親がガキだから嫌われないために、もしくは周