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あー腹立つ

 まあ、腹立てても仕方ないんだけどさ、でも私的に村上春樹を攻撃されたら、「カチン」とくるわけで。でツイッターってのは割と共同のしゃべり場だったりするから、マイナスな発言は控えめにしてるのね、場が変になってしまう場合もあるし。  「非現実」な「夢想家」。ツイッターにも少し書いたけど、この2つのワードを出したってことは、「現実的」で「夢を見ない者」に対する挑戦状であるし、これは芸術、とりわけ音楽を愛する彼らしい表現の仕方だなと。  というのも音楽、特にロックやパンクなんかは敢えて体制側へのアンチの言葉を選び、刺激的な音に乗せて大衆へ運ばれ、人々の意識に入り込み、それに共感、感動した人自身を破壊(それが良い悪いに関わらず)してきたからだ。  村上春樹はそれを音楽でなく、「物語」に乗せて大衆に届けようとしている。そう、「物語」で。「演説」で届けようとは思っていないのである(たぶん。そのつもりならもう少しスピーチを練習した、、、失礼)。それを「村上春樹は遠い外国で呑気にジョギングをして過ごしている。彼はもはや日本の現実の中にはいない。表現者たるもの、現場へ足を運ばねばならない」というような声が上がっている。  だから彼は「演説」で表現しようとしているのではないのだ。国際賞を受賞し(受賞発表の時期を受賞者がどうやってコントロールできるのだろう)、その際スピーチは付き物、そして日本を代表する作家なのだから震災のことに触れないわけにはいかない。  つまり、彼は「今彼の語れることの範囲で語った」のだと思う。しかしそのスピーチの内容に関しては、どんなに「アンチ村上春樹的なもの」な人であろうとも、反論が出来ないほど完璧であったと思う。そこが彼の凄いところだと思う。「あげ足を取る」という言葉があるが、まず足があがっていないのである。出てくる反論と言えば、筋違いな「彼は現地へ行ってない」「外国で話さないでほしい」といったものばかりだ。 僕は、震災があったときから彼の発言を待っていた。阪神淡路大震災のときに、自分の故郷が破壊され、「神の子どもたち〜」という傷ついた人の心をそっとすくいとるような物語を編み上げた。そんなふうに地震、震災について深く考察したことのある人間が外国で悠々とジョギングをしているはずがないではないか。集まった募金の額が語るように、日々現地に行ってボランティアを行ってい

コーヒーおにぎり

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写真はコーヒーおにぎり、というかなり衝撃的組合せの食べ物。コーヒーとともに米を炊いたらしいが、なぜそういうことをしたのか・・。ちなみに長崎らへんのサービスエリア。 味はとくに特別なケミカル反応をおこすわけではなく、「コーヒー+おにぎり」という至極単純な足し算。つまり、おにぎり食べながらコーヒーを飲んでいる感じ。 したがって、なんつうか、これといってネーミングほどの衝撃もなく、という感じ。