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3年以上ぶりに再会

タイトルにあるように、3年以上ぶりにブログを更新してみようと思いたった。ブロガーがまだあって、これまでのアカウントが引き継げたのでよかった。 ツイッターである程度アウトプット欲が満たされたような気になっていたけど、年を重ね、仕事での責任の質・量、業務内容の質・量ともに変わってきて、それに伴い勉強量というかインプットも増えてきたので、どうにもツイッターだと整理しきれない、というか、あの場は個人的に過ぎて、ブログ、という場の方が日々の学びのアウトプット(整理)に適している、、、ということは前から分かってたのだけど、ようやっと重い腰を上げた感じ。きちんとしたデスクとイスを買ったのも大きいかも知れない。 昔のを少し見返したけど、よくやってたなと思う。15年くらい前はもっと力入れてたかな。何がそんなにアウトプットに向かわせたのだろう。。当時はやはりバンドがなくなったのが大きかったのだろうか。表現の手段がなくなった、というか。。 「音楽→文章」というアウトプットの変化は「抽象から具体への変化」ということが言えるかも知れないけど、でもブログを始めた当初からおそらく書きたいテーマはおそろしく抽象度の高いもので、それが文章という具体化されたものに変換される面白さをただただ味わっていた。自分が村上春樹が好きなのもそこらへんだと思う。 そういえば最近ツイッターで村上春樹のノルウェイの森はエロ本みたいだ、みたいなツイートが流れてきたけど、僕も初めて読んだときはそんな噂を知りながら読んだけど、感想は「え?噂は聞き間違いだったか・・」というくらいエロいなんて一ミリも思わなかった。前後の文脈があってこその描写なんだし、僕はそこに必然性を、、、というかそんなこと気にしないくらい自然に読み進められた。 まあいいや。別に自分が抽象度の理解度が高いなんて言いたいわけじゃないし、そんなの比べられるものでもない。 脱線した、というか、今日は別にノーテーマだけど、とりあえず再開初めはこんなところでしょうか。 いろいろ思うこともあり、座右の銘、というか心の支えの句である"It's not going to stop till you wise up."(エイミー・マンの歌の歌詞の一部)を実践し、勉強しながら乗り越えていっていることもあるが、最近は、おそらくコロナの影響の大きいのだろう

なんだか信じられない

 村上春樹の新作を読みながらふと、思う。  僕に6歳の頃があったなんて、なんだか信じられない。  小学校に入学した時のことを思い出してみると(それは正確には5歳の頃であるが)、教室が校舎の角にあったせいか、円形の窓があって、そこから新緑の葉が揺れていたのを思い出す。  なんでそんな光景なんかを思い出すのだろう。  6歳の頃(実際には5歳)の記憶はそれが一番鮮明である。  そんな「素晴らしい時期」があったなんて、自分のことながら信じられない。  また30年後なんかに思うんだろうか。「あんなに素晴らしい37歳の時期があったなんて信じられない」と。

液体と固体

 ある人とCDの貸し借りを行なった。  借りたCDは日本語のロックばかりで、貸したCDはキセルや青葉市子など日本人もいたが、OWENやMBV、SSLYBYなどの洋楽と、村上春樹の一番有名な小説も混ぜておいた。  つまり、「お互いの好きなものを共有したりして価値観みたいなものを広げよう」みたいなノリである。  しかし借りたCDを聞いて呆然とする。歌ってるやつの日記のような歌詞がグサグサと刺さりまくる。違和感。この違和感を消すべく、ギターやリズムに耳をすます。うん、日本語に耳を傾けずメロディでしか認識しないことで聴けるようになっていく。  一方で、日記のようでない、普遍的、もしくは意味のないこと、はたまたそこから滲み出るものを感じさせるようなものは問題なく聴ける。そもそも日本人が英語で歌うものを好まないし、日本人の音楽も少なからず持っているので、上で書いたような違和感に自分でも驚いたというか。    上で書いたような「違和感を感じた音楽」というのを僕は中高生の時代に所謂洋楽で済ませてきたんだと実感した。おそらくウィーザーやグリーンデイ、オアシス、レディオヘッドあたりをシングアロングすることでロックを聴くものが必ず通るべき道を経てきたのだと。  こないだ貸し借りしたものを返すべく会ったのだが、村上春樹は読んだかと聞くと「読んでない」と。「2、3行読んだだけでダメ。内容がよく入ってこないし、移入できる気もしなかった」と。「何が言いたいのかよくわからない」。この手の感想はよく聞く。しかし最後に「なんだか外国語を読んでいるような感じ」という感想があったので、なんかいろいろと繋がったというか。  つまり僕が村上春樹を好きなのはおそらく「外国語のような日本語」で書かれているせいなのかも知れないと。そして何かを徒然に書いているようで、そこから「滲み出てくる」人間の普遍的な愛や悲しさや優しさをほんの少しでもすくい取れることに至上の喜びを見出すからであろうと。与えられたのではなく、自分がそこにあるなんでもない「塊」から感じ取ったという事実がうれしいのだと。  こういう読者の経験は村上春樹の小説の書き方に起因しているかも知れない。間違っているかも知れないけど「自分の中の井戸のようなところに奥深く降りていって、そこで何かが動き出すのをひたすらに待ち、それが動き出したら

前提が必要なのか

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前提。 たとえばunderworldのrezのイントロがふと流れてきたらアガるよな!とか、 完璧なタイミングで流れてきたら泣くよな!とか。 今日ジョギングしてるときにヘッドフォンからふと流れてきて、 走りながら涙をこらえるのが大変だった。人も結構通ってたし。 なんなんだろうね、これ。 こんなに素晴らしいものだから共有したいのだ。 「あ、なるほど、いいね」もいいのだけど、前提として共有したいのだ。 「あ、わかるそれ」みたいな。

where will we go, what will we do,

 安保関連法案が本日の未明に成立した。 「抑止力」や「周辺で起きる万が一の有事のために」と言っているが、こういう人たちは一体いつの時代の話をしているのだろう。 昔も、そりゃ今だって戦争をするには「大義名分」がいる。平和を主張する国に対して攻撃をするのに、その後の国際社会での地位や信頼の崩壊や、国連からの制裁などのリスクに匹敵する「大義名分」てどんなだ。  例えが悪いかも知れないが、良識ある人たちが「ヤンキーにからまれると嫌なので、ちょっといかつくなります」と言っているようなもの。ヤンキーたちはその良識ある人たちを見てどう思うだろう?「うわあこわい」て思うだろうか。「は?なめてんじゃねえぞ?ヤル気かコラ?」てなるだろう。良識ある人たちを襲ったとしても、傷害罪や窃盗などで実刑くらうリスクがあるんだから、そんな阿呆なことはしない。「たまにその阿呆がいるんだよ。だから」というのはさらにレベルが下回る。そんな阿呆は実刑を喰らい、犯罪者となり、その後の人生を棒に振ることになる。  この法案はアメリカと日本の最後のパイプだったのかも知れない。お互いに国力も弱まってきて、特にアメリカにとって日本との同盟関係を維持するメリットがもはやなくなってきており、日本も「同盟国を維持するメリットのプレゼン」を必死に行わないといけなかった。経済的にだったら中国と結びつく方がよっぽどアメリカの利になるが、それをしてしまうと日本が「いじけて」しまう。そこをアメリカ側が配慮し、「ほな」ということで「わしら戦争で結構金使ってんねん。もうあらゆる形でサポートして」ということだった。「あんたらリスク負わんのに同盟だけ続けてってそりゃムシがよすぎまっせ」と。  日本はやはり「精神的ニート」だった。自立しようと思えば出来たし、その力も十分すぎるくらいあった。でも我々は怠けてしまった。政治的関心も世界から見ると圧倒的に低く、真剣に政治家を選ぶこともなく、目標を全く持たず、だらだらと時の流れに任せて生きてしまった。  この問題は「沖縄の基地問題」がちょうど相似形の問題。「基地はいらん!」とは言えないし(戦後きちんと努力してれば言えた)、あればリスクが増す。その「沖縄」にあたるのがこの法案が成立した今、「自衛隊」であり、「お!ヤル気かコラ?」と思わせた時点で日本国土も「同盟のリスク」を負うことになる

なぜ閉じようとするのか

閉じた世界は怖い。原理主義や軍国主義、独裁。 そういったものの扱いは非常に厄介だし、もちろん力づくなんかじゃ破壊できない。 アメリカが昔っから叩き潰そうとしてるイスラム原理主義なんて場所を移動してるだけで、しかもどんどん拡大している。 もちろん開いた世界のことも少しは彼らも知ってるかも知れない。 しかし婉曲した情報を刷り込まれたり、熱心な愛国教育により、開いた世界を良しとはしないし、「良しとすると罰せられるから」とペナルティ方式に思い込んでるのかも知れない。 日本は「開いた世界側」であるし、閉じた世界の住人に開いた世界を見せて、上記のような理由で納得してもらえないならば無視しておけばいい。 「これはうちの領土だ!」とか「お互いが」言い合っても埒があかないのは自明の理だろう(そりゃ「広い方」を取るよね)。  だから第3者が普通に決めればいいじゃないか。そこに明確な線引いて、「超えたら、こんなペナルティあります。いいですね?」てすりゃいい。そこを守りながらじゃないとまともな外交が出来ないでしょ。 閉じた世界は怖いし、厄介だ。 「あの怖さと厄介さが、いいよな」て思ってるのが安倍じゃないのか。 日本はようやく成熟した国への第一歩を踏み出している(日本のいろんなものが世界一だと思えるようになってきている。一昔前は違った)、と実感しているのに、せっせと閉じようとしている今の日本。 日本には多面的な人間なんていない、もしくは極少数、というのが歳を重ねてきた実感ではあるが(多面的でないからある意味善良な国民なんだろう)、今の日本に求められている政治家は自然と「国を閉じようとしちゃう側面」も同時に持ち合わせてしまうのだろう。

新たな関心事というか

それは「時間の創出」。 それによる「自分に対する実験」。 「人生は短いのではなく、十分に長いのであり、  しかし未来からの時間の前借りや、過去への逆戻りなどできないのだから、  1日24時間をどうすごすのか、人生はこれの積み重ねでしかない」 という至極当たり前の文章を目にしたからで、しかも昔から自分はダラダラとしがちであり、しかもそういうのをアイデンティティのひとつとしている節もあるので、これはどうもかっこ悪いなと心底思ったわけで。 というわけで、 「デジタルデトックス」と 「早起き」と 「朝のランニング」と 「仕事前の喫茶店で軽く読書」 を実践しようかなと。そしてこれを積み重ねることでどのような変化があるのかの実験。 ということを深夜2時に書いているという、ね。 あと音楽の守備範囲もガシガシ拡げていこうかと。