投稿

2012の投稿を表示しています

初ラフティング@球磨川

超楽しかったーー 一緒に行ったソングサイクル森さんから頂いた写真たちです。 とてもiPhoneをボートまで持ち込める状況じゃなかったので、 撮ってもらっててよかったです。 夏の思い出。 https://www.dropbox.com/sh/g1nrrdao8m8hs7q/3WLmtZQQkt

Doit Science "都市計画" MV

ドイサイエンス初のMV。 歌詞やコーラス、リズムとリンクしてるのがナイスで。 一聴した限りでは少し歌詞が聞き取りにくいけれど、このMVといっしょに見たら分かる? のかな?それは俺が歌詞を知っているからか。な? 古い知り合いのバンドだからとかそういうんではなくて、純粋にすごいバンドだと思う。 インディーで(メジャー手前という意味のインディーではなくて、インディペンデントに活動をしている、という意味での)活動するバンドというのは「俺はかっこいいと思うんだけど」とか「みんな変て言うんだけど絶対良いよね」ていう曲をやってるのが多くて、こちらがそういったバンド達に求めるのもそういうものだったりして、妙にメジャー・ディレクションなインディバンドを見ると「んーそういうの分かるんだけど、せっかくインディでやってるんだし面白いことやろうよ」とか思ってしまう(僕はインディしか好まないという訳では無くって両方好きなんだけど、インディに求めるのはそういうことになってしまうというだけで)。 その「変」なんだけど表現するバンド自体が「俺たちはかっこいいと思ってる」度合いがかなり高いとそれはどうしたって「かっこよく」なる。表現する側が「かっこいいオブラート」に包みまくってこちらに放出するわけだから、当然そうなってしまう。 ドイサイエンスの「俺たちはかっこいいと思ってる」度合いの高さというのは、ライブの演奏を見ていたらバキバキと伝わってくる。バンドメンバーが持てる力の100%で演奏している。あと、「かっこよくなるためだったらいろんな努力を惜しまない」、とか、「かっこいい曲が出来ないんだったら1年だって2年だってかかって完成してやるさ」、という気概とか。そこらへんが「ロックバンドの理想に最も近い」と思ってしまうところで。あとなぜ「ロックバンド」かというとドイサイエンスの音楽は「ロック」が一番しっくりくる。「ポストロック」じゃ小さくてはまらない。ジャンルがはまるような音楽じゃないんだけど、「ロック」みたいな大きなジャンルで初めてしっくりくる。 清田さんが確か昔「あれ?ふつうに良い曲だと思うんだけどなー」と、自分たちの曲の事を言ってて(多分「変だよね」とか言われたときだと思うけど)、その良い意味でのズレというのが、ドイサイエンスを「ポップ」たらしめている所以だと思う。表現している本

いたってまともだ

まともな国の、まともな人が書いた、まともな文章だ。 一言目が「恥を知れ」。 http://www.google.co.jp/gwt/x?hl=ja&client=twitter&u=http%3A%2F%2Ft.co%2FEpcobbrH

SSLYBYのライブに行きたすぎる

熊本もNAVAROに来るんだよなー。ド平日だけど。 福岡の火曜のやつはなんだか行けそうだ(これから日、火が休みになりそう。連休にしてくれよ、まじ)。 アルバム持って無いけど、どこそこで聞く限りめちゃいい。 アルバムまず買お。

いろいろ比較なう

  今度は動画をテスト(ただいまtumblrといろいろ比較中) ちなみにどいちゃんちの近くの海岸(軍艦島の対岸!!)での一コマ。

Radiohead - Creep (Moonbug Remix)

Radiohead - Creep (Moonbug Remix) soundcloudからのシェアをテスト

やりたい事とか次のこととか

イメージ
+++ Now Playing +++ うたびこ / 青葉市子    最近やりたい事は何なのか、というのをよく考える。仕事を始めた時は割と流れに乗ったまま始めた感じだ。というか「こういうことなんか」と腑に落ちた部分さえある。そして現状の自分に合うような言葉を選び、それを支えにやってきた(例えば「遊びが人生の全てでないように、仕事もまた人生の全てではない」とか)。 しかしある程度年月を重ね、すぐにではないが責任ある立場に就く自分が想像出来たとき、「これはもはや自由とは言えない」という空気が自分を浸食しだす。だからいろいろ考えるんだと思う。つまり責任のある立場に就いてしまえば容易にベクトルの向きを変える事など不可能だと思うから。 自分は自由が好きであると思う。人の中には自由だと何をすればいいのか行動指針というものが見つからず暇を持て余し、鬱気味になってしまう人もいるが、僕は時間は割とあればある分だけやる事を見つけてしまう。せわしなく動いてもOKだし、ゆっくりと無駄に時間を過ごす事もOKである。自由でない、ということは良い面を見れば、「自分の行動する事が(他の力によって)決められている」ということである。「何をすればいいのかわからない」と言ってブルーな気分になるような人にとっては「自由」は酷であろうと思う。 今の仕事は内容もそうであるが、「好きな事」もしくは「向いている事」だと思ってやっている。しかしいろんな仕事が回ってくるにつれ、「俺の仕事は一体なんなんだ?」と思うようになってきた。「先生」と呼ばれる仕事のはずであるが、そういう内容の仕事がだんだんと減ってきている。うちの県は社員が少ないので様々な仕事をこなさないといけないのだが、あまりに本部系の仕事が多い。集客や在籍増に関する業務を1日の大部分を使ってやって、授業になると「英語とは」とか「数学とは」という感じで授業を行なう。自分でもなんだか違和感がある。「英語とは」とか「数学とは」ということを日々研究し、その成果として生徒と対峙し授業を行なう、そうあるべきだと思う。 公立の学校の先生ではないので、もちろんそんな純粋に「先生道」みたいなものを追求出来るわけではなく、企業としての利益を追求するためには、甘っちょろいことばかりを言っているわけにもやっているわけにもいかない、ということは分かって

人と話すこと

イメージ
+++ now playing +++ 銀河 / 原田郁子 今年のGWは9連休と、なかなかの強烈な連休。「そんなに連休があるなら海外とか行けるね」という話もあったが、なかなかこの歳になるとそれぞれに都合があって、行くとしても一人とか、二人とかになってしまい、連休の大半を一人か、二人で過ごすことになってしまう。僕は割とこういう休みがあるときは「なるべく多くの人に会いたい」と思うので、なかなか海外旅行というのに縁が遠いのである。  「人間関係を最新にアップデートをする」という表現は何だか冷たい感じや、損得感を感じさせるかも知れないが、その表現が割としっくりくる。時間が空いて再会すると何だかスムーズじゃないというか、「会うのに少し余計な力を入れる必要がある」というか。久しぶりの人に会うのはとても楽しいし、嬉しいし、その当時の気分も戻るしいいんだけど、会える人には年に1回くらいは会って、会うときも自然体で会えるのもいいのではないか、と。いきなり突っ込んだ話とか深い話とか出来て「現状を確認し合う手間」が省ける、というか。  特に僕の仕事のような業種であればGWくらいしかまともな連休はなく、お盆や正月は実は生徒のことで頭が占められていたりするが、GWは生徒には申し訳ないが、完全に頭は仕事のことはからっぽにしている。  しかしその中で元福岡の同僚のYさんと話すのはとても楽しい。上にも少し書いたけど自ら深い話や抽象的な話をしてくれるのでなんだかいろんな手間が省けて気を使わずに話すことが出来る。もちろんYさんの考えていることは素晴らしいし、とても納得がいくものなので聞いているだけでも勉強になるのだが、会話はキャッチボールなので、投げられたボールに対して瞬時にいろんなことを考えてボールを返すのであるが、そのときに「こんなことを俺は考えているのか」と、返すボールを見つめながら思うことがあり、それが人と話すことの醍醐味であると。瞬時に返すようなプレッシャーをかけることで埋もれているものを強引に掘り出しているというか。  そのときに話したことを備忘録的に記そうと思ってこれを書き始めたんだった。 ・自分の将来を考えるときに、「塾」で働いていること、ということをどう捉えるのか。「教育」というのが「子どもの幸せ」に繋がるものだとすれば、いろんな方向から子どもを幸せにする方法が

子ども達の未来

今の日本の状況を見ると子どもが不憫でならない。原発の問題も廃棄、処理どうすんのさ。国の借金、雇用の国外流出、高齢化社会・・。我々の世代が「莫大な借金」により豊かさを手に入れたのなら、一人ひとりが未来を見据えて行動しないと、到底まともな社会が将来に存在するとは思えない。 「電気足りないから」て。昨年は節電で全然乗り切れたじゃん。今年はなんでやらないのだろう。もういいじゃん。我々は「借金」で良い思いをしてきたんだから(厳密には我々より上の世代だがね)。「経済よくなって、税収よくなって、はい借金返済!」なんてどこの政治家が本気で思ってんのさ。そんなアフォみたいに能天気なこと、子ども達でさえ考えつかない。考えつくのはバブリーな味覚を知ってる世代だ。 「机上の空論を振りかざすな」なんて識者に向かって政治家たちは言うが、余程君等の方がそうだよ。現実の感覚を肌で感じてるもっと若い世代に政治をやらせないとダメだと思う。「日本の良い時代をあまり知らない」世代でこそ、現実的にモノを考え、打開策を練るんだろうと思う。そんな打開策なんて無いのかも知れないけど。 ギャンブラーがそうでしょ。「当たった感覚」を追い求めて借金膨らませながら、ギャンブルに身を投じるのだから。そしてそっちのほうがまだマシなのさ。まだそれで勝つ確率は今の日本が再生する確率より高いんだから。 生徒の中学生が言うのよ、「俺等が大人になったら老人だらけで、年金なんて俺等の分は残んないでしょ」て。んで俺は言う「こら。年金に頼るような生き方するな。なりたいものになれれば、人生充実する。そのために今頑張る時でしょ」って。でも分かってる「そんなの少数派」ってことと「今の日本にそんな余裕は無い」ってこと。  八方塞がり的な文章を書いていることは重々承知だが、でもこれが現実だと思うんだよね。でもその現実を無視して我慢しない、子どもたちや将来のことを全く考えない「大人」たちに心底が腹が立つわけ。原発論外。今どんなに苦しかろうと我々大人が我慢するとき。そして将来子ども達にまともな社会が来るような礎をつくる。それとも「お前等も借金して乗り切れ」とか言うの?  勝ち目の無いギャンブルをやる季節は終わりだ。

抗菌抗菌。

イメージ
+++ Now Playing +++ James Iha / let it come down  インフルエンザが流行していますね。小さいお子さんなどいらっしゃる方はお気をつけを。受験生のお持ちの方も。我が校でも受験生で出ないかどうかヒヤヒヤです。  が。  FBを触ったり触らなかったりしているのですが、あそこでの一挙手一投足の反映のされっぷりがハンパない。自分が投稿しなくても、人の投稿やシェアなんかにすぐに「いいね」ボタンを押せたりする。だから何か二重の意味で気持ちが悪いというか。  つまり自分が投稿するときというのは、いろんな人に知れ渡る可能性がある。自分の投稿に知り合いのAが「いいね」ボタンを押したとする。すると、その知り合いBが「あ、Aが『いいね』て言っている」と気づき、自分の投稿を覗いたりする。  そういうことを意識する余か、もしくは僕の友人(として登録させていただいてる)たちがそうなのかは知りませんが、FBのウォールを眺めていると、「なんと素晴らしき抗菌の世界」と言いたくなる感じ、なのである。まあ「少し縁が薄い人と繋がりを持つため」としてのFBで、僕もそういうふうに使っているので文句は言えないのだけど、でも「もっと面白いことを話そうぜ」とか思ったりする。だから何でもありではないけれども、思ったことを普通につぶやけるツイッターのほうが何倍も面白いぞ、と、そんな気がする。FBのウォールは見てるとなんだかむずがゆくなってしまうのだ。  僕が面白いと思ってる人は、まったくFBには投稿をしないので、結局のところそういうことなのかも知れません。

awamokを見た

イメージ
+++ Now Playing +++ awamok / 街が眠ったら アルバムは持ってたけど、ライブを見たことが無かったので、見たいなーと思ってたら、ドイサイエンスが対バンってことで熊本まで見てきました。  なんというか、「バンド、かくありき」というか、全ての楽器の鳴りと、その合わさり方が尋常じゃなくて。しかも各人の楽器演奏レベルがかなり高く、やはり技術があるというのは「聞き手の集中力」に大きな影響を及ぼすので(お笑い芸人が「噛んだ」途端に聞き手がネタに集中出来なくなるアレ)、ライブ見ながらの「トリップしていく感じ」がとても凄かったです。  また、リーダーと呼ばれていたギターとボーカルの人の、ギターのテクニックが凄くて、「ギター、もしくは楽器がうまい人は何か高尚であるなー」とか思ってしまったわけで。こんなにも聞く人の感情を揺さぶることが出来るんだなーと。    今日はもう寝ようと思うので、このへんで。