やりたい事とか次のこととか
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| +++ Now Playing +++ うたびこ / 青葉市子 |
最近やりたい事は何なのか、というのをよく考える。仕事を始めた時は割と流れに乗ったまま始めた感じだ。というか「こういうことなんか」と腑に落ちた部分さえある。そして現状の自分に合うような言葉を選び、それを支えにやってきた(例えば「遊びが人生の全てでないように、仕事もまた人生の全てではない」とか)。
しかしある程度年月を重ね、すぐにではないが責任ある立場に就く自分が想像出来たとき、「これはもはや自由とは言えない」という空気が自分を浸食しだす。だからいろいろ考えるんだと思う。つまり責任のある立場に就いてしまえば容易にベクトルの向きを変える事など不可能だと思うから。
自分は自由が好きであると思う。人の中には自由だと何をすればいいのか行動指針というものが見つからず暇を持て余し、鬱気味になってしまう人もいるが、僕は時間は割とあればある分だけやる事を見つけてしまう。せわしなく動いてもOKだし、ゆっくりと無駄に時間を過ごす事もOKである。自由でない、ということは良い面を見れば、「自分の行動する事が(他の力によって)決められている」ということである。「何をすればいいのかわからない」と言ってブルーな気分になるような人にとっては「自由」は酷であろうと思う。
今の仕事は内容もそうであるが、「好きな事」もしくは「向いている事」だと思ってやっている。しかしいろんな仕事が回ってくるにつれ、「俺の仕事は一体なんなんだ?」と思うようになってきた。「先生」と呼ばれる仕事のはずであるが、そういう内容の仕事がだんだんと減ってきている。うちの県は社員が少ないので様々な仕事をこなさないといけないのだが、あまりに本部系の仕事が多い。集客や在籍増に関する業務を1日の大部分を使ってやって、授業になると「英語とは」とか「数学とは」という感じで授業を行なう。自分でもなんだか違和感がある。「英語とは」とか「数学とは」ということを日々研究し、その成果として生徒と対峙し授業を行なう、そうあるべきだと思う。
公立の学校の先生ではないので、もちろんそんな純粋に「先生道」みたいなものを追求出来るわけではなく、企業としての利益を追求するためには、甘っちょろいことばかりを言っているわけにもやっているわけにもいかない、ということは分かっている。が、やっている自分自身に違和感を感じる。もう少し大きな県に行けば役割がしっかりしてくるのだろうか。
まあでも何事も経験であるから、今やっている事は無駄にならないであろうということは分かるが、生徒にはなんだか後ろめたい気持ちになる。本部の仕事を進めていくために生徒の事を考える時間や対峙する時間が必然と減っていくのだから。
こういったことを効率的にやろうと、僕は日々様々な情報を入れていっているのかも知れない。様々な情報(現在の世の中の情勢やら、マーケティングやら、教育やら、社会学やら)を入れ込み、大雑把ながらも咀嚼し、ある程度自分の血肉となったところで、それを業務に活かす。そうすればある程度「どうすればいいんだろう?」と考える時間が削れるように思う。生徒の進路相談などをする際にもある程度「理由漬けされたアドバイス」が出来るような気もする。
音楽は身近にある。テレビはほぼ付けずに音楽を流してネットなり読書なりをしている。音楽は様々な情報を取り入れる際に自分の中の余白をどんどん作っていってくれている気がする。「おーそうであるのか」と知識を入れながら熱を帯びていく自分を、適正な温度に保つというか。一旦落ち着かせて、さらにいろんなことを取り入れる余白を作っていってくれている感覚というか。
今はよく昔に聞いていた音楽や、新しい人の音楽でも青葉市子なんかの「なんか分からないが子供時代の記憶を刺激される」音楽をよく聞いている気がする。まあ共通項は「タイムスリップ」かwこんなふうに自分の「心の年齢」をコントロールするのは音楽の魅力の一つであると思う。この感覚に僕はどれだけ救われる、という言い方は適切ではないな、どれだけ「高揚している」か、その感覚により、いろんなことがリセットされている気がする。
なんだか音楽の話に脱線しているが、とりあえずやりたい事を「真剣に」考える時期が来ている気がする。「何歳からでも人生やり直せる」とか何だかテキトーな言葉はあるが、それは「責任が何も無い状態」での話。責任が生じれば、ある程度それを続ける事が義務となる。だから「一生続けるとなれば、自分は何をしたいのか」という話になり、それは「真剣にならざるを得ない」という話である。
まあそういう時期である、ということ。

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