投稿

3年以上ぶりに再会

タイトルにあるように、3年以上ぶりにブログを更新してみようと思いたった。ブロガーがまだあって、これまでのアカウントが引き継げたのでよかった。 ツイッターである程度アウトプット欲が満たされたような気になっていたけど、年を重ね、仕事での責任の質・量、業務内容の質・量ともに変わってきて、それに伴い勉強量というかインプットも増えてきたので、どうにもツイッターだと整理しきれない、というか、あの場は個人的に過ぎて、ブログ、という場の方が日々の学びのアウトプット(整理)に適している、、、ということは前から分かってたのだけど、ようやっと重い腰を上げた感じ。きちんとしたデスクとイスを買ったのも大きいかも知れない。 昔のを少し見返したけど、よくやってたなと思う。15年くらい前はもっと力入れてたかな。何がそんなにアウトプットに向かわせたのだろう。。当時はやはりバンドがなくなったのが大きかったのだろうか。表現の手段がなくなった、というか。。 「音楽→文章」というアウトプットの変化は「抽象から具体への変化」ということが言えるかも知れないけど、でもブログを始めた当初からおそらく書きたいテーマはおそろしく抽象度の高いもので、それが文章という具体化されたものに変換される面白さをただただ味わっていた。自分が村上春樹が好きなのもそこらへんだと思う。 そういえば最近ツイッターで村上春樹のノルウェイの森はエロ本みたいだ、みたいなツイートが流れてきたけど、僕も初めて読んだときはそんな噂を知りながら読んだけど、感想は「え?噂は聞き間違いだったか・・」というくらいエロいなんて一ミリも思わなかった。前後の文脈があってこその描写なんだし、僕はそこに必然性を、、、というかそんなこと気にしないくらい自然に読み進められた。 まあいいや。別に自分が抽象度の理解度が高いなんて言いたいわけじゃないし、そんなの比べられるものでもない。 脱線した、というか、今日は別にノーテーマだけど、とりあえず再開初めはこんなところでしょうか。 いろいろ思うこともあり、座右の銘、というか心の支えの句である"It's not going to stop till you wise up."(エイミー・マンの歌の歌詞の一部)を実践し、勉強しながら乗り越えていっていることもあるが、最近は、おそらくコロナの影響の大きいのだろう...

なんだか信じられない

 村上春樹の新作を読みながらふと、思う。  僕に6歳の頃があったなんて、なんだか信じられない。  小学校に入学した時のことを思い出してみると(それは正確には5歳の頃であるが)、教室が校舎の角にあったせいか、円形の窓があって、そこから新緑の葉が揺れていたのを思い出す。  なんでそんな光景なんかを思い出すのだろう。  6歳の頃(実際には5歳)の記憶はそれが一番鮮明である。  そんな「素晴らしい時期」があったなんて、自分のことながら信じられない。  また30年後なんかに思うんだろうか。「あんなに素晴らしい37歳の時期があったなんて信じられない」と。

液体と固体

 ある人とCDの貸し借りを行なった。  借りたCDは日本語のロックばかりで、貸したCDはキセルや青葉市子など日本人もいたが、OWENやMBV、SSLYBYなどの洋楽と、村上春樹の一番有名な小説も混ぜておいた。  つまり、「お互いの好きなものを共有したりして価値観みたいなものを広げよう」みたいなノリである。  しかし借りたCDを聞いて呆然とする。歌ってるやつの日記のような歌詞がグサグサと刺さりまくる。違和感。この違和感を消すべく、ギターやリズムに耳をすます。うん、日本語に耳を傾けずメロディでしか認識しないことで聴けるようになっていく。  一方で、日記のようでない、普遍的、もしくは意味のないこと、はたまたそこから滲み出るものを感じさせるようなものは問題なく聴ける。そもそも日本人が英語で歌うものを好まないし、日本人の音楽も少なからず持っているので、上で書いたような違和感に自分でも驚いたというか。    上で書いたような「違和感を感じた音楽」というのを僕は中高生の時代に所謂洋楽で済ませてきたんだと実感した。おそらくウィーザーやグリーンデイ、オアシス、レディオヘッドあたりをシングアロングすることでロックを聴くものが必ず通るべき道を経てきたのだと。  こないだ貸し借りしたものを返すべく会ったのだが、村上春樹は読んだかと聞くと「読んでない」と。「2、3行読んだだけでダメ。内容がよく入ってこないし、移入できる気もしなかった」と。「何が言いたいのかよくわからない」。この手の感想はよく聞く。しかし最後に「なんだか外国語を読んでいるような感じ」という感想があったので、なんかいろいろと繋がったというか。  つまり僕が村上春樹を好きなのはおそらく「外国語のような日本語」で書かれているせいなのかも知れないと。そして何かを徒然に書いているようで、そこから「滲み出てくる」人間の普遍的な愛や悲しさや優しさをほんの少しでもすくい取れることに至上の喜びを見出すからであろうと。与えられたのではなく、自分がそこにあるなんでもない「塊」から感じ取ったという事実がうれしいのだと。  こういう読者の経験は村上春樹の小説の書き方に起因しているかも知れない。間違っているかも知れないけど「自分の中の井戸のようなところに奥深く降りていって、そこで何かが動き出すのをひたすらに待ち、それが動き出したら...

前提が必要なのか

イメージ
前提。 たとえばunderworldのrezのイントロがふと流れてきたらアガるよな!とか、 完璧なタイミングで流れてきたら泣くよな!とか。 今日ジョギングしてるときにヘッドフォンからふと流れてきて、 走りながら涙をこらえるのが大変だった。人も結構通ってたし。 なんなんだろうね、これ。 こんなに素晴らしいものだから共有したいのだ。 「あ、なるほど、いいね」もいいのだけど、前提として共有したいのだ。 「あ、わかるそれ」みたいな。

where will we go, what will we do,

 安保関連法案が本日の未明に成立した。 「抑止力」や「周辺で起きる万が一の有事のために」と言っているが、こういう人たちは一体いつの時代の話をしているのだろう。 昔も、そりゃ今だって戦争をするには「大義名分」がいる。平和を主張する国に対して攻撃をするのに、その後の国際社会での地位や信頼の崩壊や、国連からの制裁などのリスクに匹敵する「大義名分」てどんなだ。  例えが悪いかも知れないが、良識ある人たちが「ヤンキーにからまれると嫌なので、ちょっといかつくなります」と言っているようなもの。ヤンキーたちはその良識ある人たちを見てどう思うだろう?「うわあこわい」て思うだろうか。「は?なめてんじゃねえぞ?ヤル気かコラ?」てなるだろう。良識ある人たちを襲ったとしても、傷害罪や窃盗などで実刑くらうリスクがあるんだから、そんな阿呆なことはしない。「たまにその阿呆がいるんだよ。だから」というのはさらにレベルが下回る。そんな阿呆は実刑を喰らい、犯罪者となり、その後の人生を棒に振ることになる。  この法案はアメリカと日本の最後のパイプだったのかも知れない。お互いに国力も弱まってきて、特にアメリカにとって日本との同盟関係を維持するメリットがもはやなくなってきており、日本も「同盟国を維持するメリットのプレゼン」を必死に行わないといけなかった。経済的にだったら中国と結びつく方がよっぽどアメリカの利になるが、それをしてしまうと日本が「いじけて」しまう。そこをアメリカ側が配慮し、「ほな」ということで「わしら戦争で結構金使ってんねん。もうあらゆる形でサポートして」ということだった。「あんたらリスク負わんのに同盟だけ続けてってそりゃムシがよすぎまっせ」と。  日本はやはり「精神的ニート」だった。自立しようと思えば出来たし、その力も十分すぎるくらいあった。でも我々は怠けてしまった。政治的関心も世界から見ると圧倒的に低く、真剣に政治家を選ぶこともなく、目標を全く持たず、だらだらと時の流れに任せて生きてしまった。  この問題は「沖縄の基地問題」がちょうど相似形の問題。「基地はいらん!」とは言えないし(戦後きちんと努力してれば言えた)、あればリスクが増す。その「沖縄」にあたるのがこの法案が成立した今、「自衛隊」であり、「お!ヤル気かコラ?」と思わせた時点で日本国土も「同盟のリスク」を負うことになる...

なぜ閉じようとするのか

閉じた世界は怖い。原理主義や軍国主義、独裁。 そういったものの扱いは非常に厄介だし、もちろん力づくなんかじゃ破壊できない。 アメリカが昔っから叩き潰そうとしてるイスラム原理主義なんて場所を移動してるだけで、しかもどんどん拡大している。 もちろん開いた世界のことも少しは彼らも知ってるかも知れない。 しかし婉曲した情報を刷り込まれたり、熱心な愛国教育により、開いた世界を良しとはしないし、「良しとすると罰せられるから」とペナルティ方式に思い込んでるのかも知れない。 日本は「開いた世界側」であるし、閉じた世界の住人に開いた世界を見せて、上記のような理由で納得してもらえないならば無視しておけばいい。 「これはうちの領土だ!」とか「お互いが」言い合っても埒があかないのは自明の理だろう(そりゃ「広い方」を取るよね)。  だから第3者が普通に決めればいいじゃないか。そこに明確な線引いて、「超えたら、こんなペナルティあります。いいですね?」てすりゃいい。そこを守りながらじゃないとまともな外交が出来ないでしょ。 閉じた世界は怖いし、厄介だ。 「あの怖さと厄介さが、いいよな」て思ってるのが安倍じゃないのか。 日本はようやく成熟した国への第一歩を踏み出している(日本のいろんなものが世界一だと思えるようになってきている。一昔前は違った)、と実感しているのに、せっせと閉じようとしている今の日本。 日本には多面的な人間なんていない、もしくは極少数、というのが歳を重ねてきた実感ではあるが(多面的でないからある意味善良な国民なんだろう)、今の日本に求められている政治家は自然と「国を閉じようとしちゃう側面」も同時に持ち合わせてしまうのだろう。

新たな関心事というか

それは「時間の創出」。 それによる「自分に対する実験」。 「人生は短いのではなく、十分に長いのであり、  しかし未来からの時間の前借りや、過去への逆戻りなどできないのだから、  1日24時間をどうすごすのか、人生はこれの積み重ねでしかない」 という至極当たり前の文章を目にしたからで、しかも昔から自分はダラダラとしがちであり、しかもそういうのをアイデンティティのひとつとしている節もあるので、これはどうもかっこ悪いなと心底思ったわけで。 というわけで、 「デジタルデトックス」と 「早起き」と 「朝のランニング」と 「仕事前の喫茶店で軽く読書」 を実践しようかなと。そしてこれを積み重ねることでどのような変化があるのかの実験。 ということを深夜2時に書いているという、ね。 あと音楽の守備範囲もガシガシ拡げていこうかと。

教育と芸術

備忘録的に。 「画家が素人のようにではなく、形態を観察し、色と色との関係、その調和、不調和を観察し、その観察を元にして独自の色や線を我がものにするように、自分の全存在をかけてそれを我がものにするように、教育者も一つの教育技法を身につけなくてはならない。」 「教育は学問ではなく芸術でなくてはならない。芸術家が身につけなくてはならないのは、第一に特別の観察力であり、第二に絶えざる観察の中で、素材との絶えざる葛藤の中で、技法を身につけることである。」 「九歳か十歳くらいの子に人生における重要な転換期を迎える。この時期の子どもが夢に似た感情の営みの中で体験する事柄を、もしも意識的な表現で語るとすれば、『先生は私が今、尊敬を込め、信頼を込めて受け取っているその力を、一体どこから得ているのか』ーーー 私たちはこのように無意識的に問う子どもたちの魂の深みに向かって、教育者として、自分の権威が世界秩序の中にしっかりと根を下ろしているからこそ正しいのだ、と実証出来なければならない。本当の人間認識を持つことが出来れば、この時期の子どもがいくらかの言葉を、時にはたくさんの言葉を、このことのために必要としていることに気づくはずである」

American Football - Never Meant [OFFICIAL MUSIC VIDEO]

イメージ
この曲の "I just think it's best. Cos you can't miss what you forget." のラインがすごい好きで。 僕はマイク・キンセラという人のこういうところが大好きで。 きれいごととか一切なく、「なんか思い出すのも辛いんでなかったことにしていいすか?」 みたいな、純粋がゆえの性格の悪さ、というか、子どもっぽさ、というか。 歌詞の雰囲気がこのMVにしっかり込められててホントびっくり。 映像見ながら歌詞とリンクして感動倍増っていう。男女のルックスのバランスもかなりエモい。 MV見て久々感動。

消費と商品と生きる技術

自分でやることがめんどくさい、そこに消費、商品が登場する、教育、スーパー、レストラン、カーナビ、、そして心さえも商品として扱う、心理学、カウンセリング、、そりゃ生きにくくなるはず、いろんなことが我々の手から離れる、専門家とは名ばかりの、専門家らしきものの手に全てが集約されていく。 我々が金儲けのために作り出す全てが、 我々からいろんなものを奪い去る。 「そういうのは専門家に任せた方がいい」 「そうね」 思考停止のサイクル。 でも商品化の加速は止まらない。ね。

東京五輪を自然エネルギーで運営するとさ、

 原発再稼働とか言ってるけど、まあもちろん原子力分野でも頑張ってる感出して、その背後に「核兵器」の存在をちらつかせ、中国韓国北朝鮮を牽制したいのは分かるよ(いや本音を言えば何で牽制する必要がある?EUみたいに東アジアもくっつけばいいのにとか本気で思う。アメリカがそれを嫌がって、多分影でいろいろこそこそやってんだろうとは思うけど)。自然エネルギーがサステイナビリティの観点で、長い目で見れば避けられないエネルギーであることは自明の理であることは別で置いといて、、  東京五輪のストーリー性的にもエンターテインメント性的にも東京五輪は自然エネルギーで運営するべきだと思う。それが可能かどうかなんて専門家でも何でもないから分からないけど、でもそういうふうにやるという目標を政府は立てるべきだと思う。  「原発の事故があった。そこを教訓とし、世界に誇れる技術で自然エネルギー、再生可能エネルギーの開発に尽力し、その結果、東京五輪を全て自然エネルギーを使って運営することが出来ました」というストーリーに誰か感動しない人はいますか、っていう。そしてそんな「みんなのこと(世界、地球)を考えてくれている日本」に嫌な感情を持つ国がありますか、っていう。  仮にさ、隣国達が「日本は原子力開発を放棄したので、核開発もやってないはず。狙い時や」と言わんばかりに牽制してきたとしても、そういった「まっとうな正義」のために尽力してる日本に助けの手を出さない国がありますか。アメリカは中国に、もしかしたら気を使うかも知らんけどまあ少しは助けてくれる、そしてドイツを始めとする欧州諸国や、(非力かもけど)東南アジア諸国は助けてくれる。  「なに人に頼ってんだ」てなるかもけど、今そういう時代でしょ。ってかそういう時代じゃなくたって、「そんな自然エネルギーだけで五輪を運営できるような技術力をもった日本に加勢しないわけにはいかない。なぜならその技術を我々も教えてもらいたいから」という打算も働くでしょ。中国も、低所得層にもそれなりの装備が整ってきた昨今だから、これから加速度的にエネルギー問題、環境問題は深刻になるので今自然エネルギーの開発に結構力を入れているわけで、この分野で中国に負けたらいかんと思うのよ。スタートは日本がかなり前に切っているわけだし。  電化製品は韓国に負けてるし、車はかろうじてまだトップ...

酔いと怒りと熱と醍醐味と

ツイッターで書いてたら字数全然足りんことに気付いた。でも全然言いたいことでもあんまないのだけど。 酔っ払うと「あーこの人案外怒り溜まってんだなー」て分かる人がいたりして、でも自分なんかは十代のときにカト・コバンとかに怒ってもないのに怒れとか言われたり「怒った方がこういう音楽はよく聞こえる」とかまじないをかけられたり、挙句無理やり怒ったりして、そして彼の言う通りなんとなくスッキリしたりして("Teenage angst has paid off well")今は何と無く怒りの対処がわかったりして、そういう人のそこらへんの感情がわかんなかったりする。 でも酔って怒ったりしてる人を見てたりすると「酔いの醍醐味じゃねーか!!」と思ったりもして、でも怒らない自分見てると「冷めてんのか??」とも思うが、「いやそうは思わんけど」とか思ったりして、、、 んーいいなー酔いの醍醐味

四季が踊りだす

四季が踊りだす。 冬は思いっきり温かい鍋を食べよう。 春は、そうだな、ピクニックだ。 夏は浜辺で、ガチ・ビーチバレー。 秋は紅葉見ながら蕎麦でも食べて、 冬はまた思いっきり温かい鍋だ。 その前に街にでて、明かりやら何やらを眺めて、 好きな色のコートでも買って、 プレゼントに、そのコートに良く合うマフラーと手袋を買おう。 これからいろんな出会いや、 耐えられない別れもあるのかな。 でも四季が踊りだすのがわかったなら、 僕はそれを眺めていられるのが嬉しい。 祝え。 祝えたらいいなー。 明日晴れたら川辺を走ろう。 きめた。

コンサンプションタックス

ひさびさの更新で、しかもちょいと時代遅れの消費税率アップについて書くという奇行。 なんとなく書きたくなって。でもツイッターじゃないなー、もちろんFBでもないなー、みたいな。 消費税率アップには大いに賛成というか。みな「今よりは」消費に慎重なるでしょ。しかも不景気なんだし。 そうすると無駄な消費が減るというか。無駄な消費、って何か嫌じゃん。ゴミも増えるんだし、無駄な資源も使うんだし。 でもそうすると政府の目的である税収アップは果たせないと思うのよ。消費自体減るんだから、税率アップしても、ねえ。もちろん駆け込み消費による税収アップはいくらかあるだろけど。 だから心配なのは将来の国の金。税収落ち込む中で賢くやりくりできそうな頭の良さそうな人はいなさそうだし、原発の後処理にいくらでも注ぎ込むような先の見えてない阿呆だらけだし。 なんだかテキトーだよね、政治。 政治の悪口を言いたいのではなくて、消費税率アップによる「賢い消費」が増える事に少し希望を見出しつつ、でも「賢い消費が増える事による税収の減少」も同時に憂いている、と。 でも、というか、話題変わるかもけど、日本人てようやく「オリジナル」で「良い国民」であることを理解しだしたんじゃないかな。だからもっともっと世界に於ける立ち位置を自覚していくといいと思う。 これまでは国民も政治家も「陰に隠れているから、まあ何でもしていいや。阿呆でもいいや」て感じだったと思うの、ざっくり言って。顔の見えない人たちが何やら好き勝手やってその結果が今だと。 消費税率アップって何か1つのきっかけよなとか思う。なんでもいいんだよ、考える、っていう行為であれば。「消費税率上がるし、本当にいるものを考えよう」ってなればさ、確実に顔の見えない人たちが、「顔が見えても恥ずかしくない」とこに一歩近づく。そして作る側も本気で考える。「良いものって?」って。 消費税率どんどん上げれ(無責任w)。少なくとも僕は自分の欲しい物はわかってるし、国の将来も憂いているので問題はありません。よ?

理想とするのは

・とことん深く考え ・軽やかに ・常に多面的に 生きる、ということだろうか。 その方が面白そう、という選択をしてるんだと思う。 だからついバランスをとってしまう。 そしてその振り幅をどれどけ大きくしていくか、 がこれからの人生のテーマなんかなと思う。 欲張りなんかも知れん。 集中力がないのかも知れん。 でもそういうのを選択してしまったんだ、と。

なぜ遊びに旅をチョイスするのか

 放置してたブログを連日更新するという荒業。まあでも某ジンのための材料あつめ。  なぜ遊びに旅をチョイスするのか。休みが出来たらなぜ旅、遠足に出かけるのか。  それは「偶然性、偶発性が高いところでの出来事に楽しみながら対処していく刺激」を求めてるのだと思う。  いやなぜこういうことを考えたのかというと、楽しかったGWから日常に戻るとなぜ「つまらない」のかとふと思って。あーこの生活がまた続いて行くんだ、と思うと本当思うところがあった次第でして。  じゃあ仕事をしながら楽しむためには、自分が「偶然性、偶発性が高いところでの出来事を楽しみながら対処していく」仕事を見つければいいのではないかと。もしくは今の仕事をそういうふうに捉えることが出来ればいいのではないかと。  まあでも「楽しみながら」というところがミソというか、いや既に「楽しみながら」と言ってしまっているので身も蓋もないのだが、ただ、そういうふうに仕事のある日々が送れればそういうことなのかな、と。  仕事の目的はもちろんお金だが、それが全てになってしまっては本当に味気ないと思う。ギャンブルやる奴に「生活に困らないくらいお金やるからギャンブルやめろ」と言ってもそいつはその金を握りしめてまたギャンブルに出かけて行くだろうし、いちご狩りに出かけようとしている人に「いやいちごあげるからいちご狩り行かなくていいよ」と言えば、その人は怒りだしてしまうだろう。「いやそういう問題ではない」  人は過程のところで「偶然性、偶発性が高いところでの出来事に楽しみながら対処していく刺激」を求めて動いているのだと思う。だから仕事もきっとそうだ。「お金やるから働かなくていいよ」というのは、何か決定的に間違っているのではないか、と。寝よ。

無形のままでもいいかも、というか無形のままがいいのかも

 フルで動きまくったGWが終了。いろんな人に会って、それは知り合いや家族や旅先で出会った人も含めて、量も種類もたくさんのインプットがあった。  今はそれらは原料として自分の中に存在してるし、それをいろいろ取り出してじっくり眺めるにはまだ形を成していない。並べられた粘土を、「この人から聴いた事というのはこういう形でした」と成形していく過程がいるのだと思うのだが、今のこの「自分の中に何かある」感というのが大事なのではないかと、ふつふつと思い始めて。    つまり、成形してしまうとそれは自分の中から少し距離が離れてしまうのではないかと。端的に言えば「考えるより動け」という事なのかも知れない。  あまり整理せず、「ただの燃料」として、自分が動けば、ね、と。  今日は仕事なのであんま書く時間無いのだけど、キーワードが出てきた事も事実。 「欲とスピードの関係性」。欲を強くする事が大事というのが今回の休みで得たものの大きな1つなのだが、、やっぱ長くなりそうだ。また今度書こ。

春

春。 いろいろと融解する。 固めてた感情も。 毎年そうだ。 嬉しいのだけど、嬉しいのだけど、上るのだけど、高揚するのだけど、 その位置エネルギーが致命的になる場合だってある。 春。 毎年なんでそうも思わせぶりなんだ。 なんだってなれる。なんだってなれるさ。 幻というか、幻ではないのだけど、 だからこそ気付かされる。自分に。 春はいろいろと融解する。 固まってたはずの感情も。

初ラフティング@球磨川

超楽しかったーー 一緒に行ったソングサイクル森さんから頂いた写真たちです。 とてもiPhoneをボートまで持ち込める状況じゃなかったので、 撮ってもらっててよかったです。 夏の思い出。 https://www.dropbox.com/sh/g1nrrdao8m8hs7q/3WLmtZQQkt

Doit Science "都市計画" MV

ドイサイエンス初のMV。 歌詞やコーラス、リズムとリンクしてるのがナイスで。 一聴した限りでは少し歌詞が聞き取りにくいけれど、このMVといっしょに見たら分かる? のかな?それは俺が歌詞を知っているからか。な? 古い知り合いのバンドだからとかそういうんではなくて、純粋にすごいバンドだと思う。 インディーで(メジャー手前という意味のインディーではなくて、インディペンデントに活動をしている、という意味での)活動するバンドというのは「俺はかっこいいと思うんだけど」とか「みんな変て言うんだけど絶対良いよね」ていう曲をやってるのが多くて、こちらがそういったバンド達に求めるのもそういうものだったりして、妙にメジャー・ディレクションなインディバンドを見ると「んーそういうの分かるんだけど、せっかくインディでやってるんだし面白いことやろうよ」とか思ってしまう(僕はインディしか好まないという訳では無くって両方好きなんだけど、インディに求めるのはそういうことになってしまうというだけで)。 その「変」なんだけど表現するバンド自体が「俺たちはかっこいいと思ってる」度合いがかなり高いとそれはどうしたって「かっこよく」なる。表現する側が「かっこいいオブラート」に包みまくってこちらに放出するわけだから、当然そうなってしまう。 ドイサイエンスの「俺たちはかっこいいと思ってる」度合いの高さというのは、ライブの演奏を見ていたらバキバキと伝わってくる。バンドメンバーが持てる力の100%で演奏している。あと、「かっこよくなるためだったらいろんな努力を惜しまない」、とか、「かっこいい曲が出来ないんだったら1年だって2年だってかかって完成してやるさ」、という気概とか。そこらへんが「ロックバンドの理想に最も近い」と思ってしまうところで。あとなぜ「ロックバンド」かというとドイサイエンスの音楽は「ロック」が一番しっくりくる。「ポストロック」じゃ小さくてはまらない。ジャンルがはまるような音楽じゃないんだけど、「ロック」みたいな大きなジャンルで初めてしっくりくる。 清田さんが確か昔「あれ?ふつうに良い曲だと思うんだけどなー」と、自分たちの曲の事を言ってて(多分「変だよね」とか言われたときだと思うけど)、その良い意味でのズレというのが、ドイサイエンスを「ポップ」たらしめている所以だと思う。表現している本...