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人と話すこと

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+++ now playing +++ 銀河 / 原田郁子 今年のGWは9連休と、なかなかの強烈な連休。「そんなに連休があるなら海外とか行けるね」という話もあったが、なかなかこの歳になるとそれぞれに都合があって、行くとしても一人とか、二人とかになってしまい、連休の大半を一人か、二人で過ごすことになってしまう。僕は割とこういう休みがあるときは「なるべく多くの人に会いたい」と思うので、なかなか海外旅行というのに縁が遠いのである。  「人間関係を最新にアップデートをする」という表現は何だか冷たい感じや、損得感を感じさせるかも知れないが、その表現が割としっくりくる。時間が空いて再会すると何だかスムーズじゃないというか、「会うのに少し余計な力を入れる必要がある」というか。久しぶりの人に会うのはとても楽しいし、嬉しいし、その当時の気分も戻るしいいんだけど、会える人には年に1回くらいは会って、会うときも自然体で会えるのもいいのではないか、と。いきなり突っ込んだ話とか深い話とか出来て「現状を確認し合う手間」が省ける、というか。  特に僕の仕事のような業種であればGWくらいしかまともな連休はなく、お盆や正月は実は生徒のことで頭が占められていたりするが、GWは生徒には申し訳ないが、完全に頭は仕事のことはからっぽにしている。  しかしその中で元福岡の同僚のYさんと話すのはとても楽しい。上にも少し書いたけど自ら深い話や抽象的な話をしてくれるのでなんだかいろんな手間が省けて気を使わずに話すことが出来る。もちろんYさんの考えていることは素晴らしいし、とても納得がいくものなので聞いているだけでも勉強になるのだが、会話はキャッチボールなので、投げられたボールに対して瞬時にいろんなことを考えてボールを返すのであるが、そのときに「こんなことを俺は考えているのか」と、返すボールを見つめながら思うことがあり、それが人と話すことの醍醐味であると。瞬時に返すようなプレッシャーをかけることで埋もれているものを強引に掘り出しているというか。  そのときに話したことを備忘録的に記そうと思ってこれを書き始めたんだった。 ・自分の将来を考えるときに、「塾」で働いていること、ということをどう捉えるのか。「教育」というのが「子どもの幸せ」に繋がるものだとすれば、いろんな方向から子どもを幸せにする方法が...

子ども達の未来

今の日本の状況を見ると子どもが不憫でならない。原発の問題も廃棄、処理どうすんのさ。国の借金、雇用の国外流出、高齢化社会・・。我々の世代が「莫大な借金」により豊かさを手に入れたのなら、一人ひとりが未来を見据えて行動しないと、到底まともな社会が将来に存在するとは思えない。 「電気足りないから」て。昨年は節電で全然乗り切れたじゃん。今年はなんでやらないのだろう。もういいじゃん。我々は「借金」で良い思いをしてきたんだから(厳密には我々より上の世代だがね)。「経済よくなって、税収よくなって、はい借金返済!」なんてどこの政治家が本気で思ってんのさ。そんなアフォみたいに能天気なこと、子ども達でさえ考えつかない。考えつくのはバブリーな味覚を知ってる世代だ。 「机上の空論を振りかざすな」なんて識者に向かって政治家たちは言うが、余程君等の方がそうだよ。現実の感覚を肌で感じてるもっと若い世代に政治をやらせないとダメだと思う。「日本の良い時代をあまり知らない」世代でこそ、現実的にモノを考え、打開策を練るんだろうと思う。そんな打開策なんて無いのかも知れないけど。 ギャンブラーがそうでしょ。「当たった感覚」を追い求めて借金膨らませながら、ギャンブルに身を投じるのだから。そしてそっちのほうがまだマシなのさ。まだそれで勝つ確率は今の日本が再生する確率より高いんだから。 生徒の中学生が言うのよ、「俺等が大人になったら老人だらけで、年金なんて俺等の分は残んないでしょ」て。んで俺は言う「こら。年金に頼るような生き方するな。なりたいものになれれば、人生充実する。そのために今頑張る時でしょ」って。でも分かってる「そんなの少数派」ってことと「今の日本にそんな余裕は無い」ってこと。  八方塞がり的な文章を書いていることは重々承知だが、でもこれが現実だと思うんだよね。でもその現実を無視して我慢しない、子どもたちや将来のことを全く考えない「大人」たちに心底が腹が立つわけ。原発論外。今どんなに苦しかろうと我々大人が我慢するとき。そして将来子ども達にまともな社会が来るような礎をつくる。それとも「お前等も借金して乗り切れ」とか言うの?  勝ち目の無いギャンブルをやる季節は終わりだ。

抗菌抗菌。

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+++ Now Playing +++ James Iha / let it come down  インフルエンザが流行していますね。小さいお子さんなどいらっしゃる方はお気をつけを。受験生のお持ちの方も。我が校でも受験生で出ないかどうかヒヤヒヤです。  が。  FBを触ったり触らなかったりしているのですが、あそこでの一挙手一投足の反映のされっぷりがハンパない。自分が投稿しなくても、人の投稿やシェアなんかにすぐに「いいね」ボタンを押せたりする。だから何か二重の意味で気持ちが悪いというか。  つまり自分が投稿するときというのは、いろんな人に知れ渡る可能性がある。自分の投稿に知り合いのAが「いいね」ボタンを押したとする。すると、その知り合いBが「あ、Aが『いいね』て言っている」と気づき、自分の投稿を覗いたりする。  そういうことを意識する余か、もしくは僕の友人(として登録させていただいてる)たちがそうなのかは知りませんが、FBのウォールを眺めていると、「なんと素晴らしき抗菌の世界」と言いたくなる感じ、なのである。まあ「少し縁が薄い人と繋がりを持つため」としてのFBで、僕もそういうふうに使っているので文句は言えないのだけど、でも「もっと面白いことを話そうぜ」とか思ったりする。だから何でもありではないけれども、思ったことを普通につぶやけるツイッターのほうが何倍も面白いぞ、と、そんな気がする。FBのウォールは見てるとなんだかむずがゆくなってしまうのだ。  僕が面白いと思ってる人は、まったくFBには投稿をしないので、結局のところそういうことなのかも知れません。

awamokを見た

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+++ Now Playing +++ awamok / 街が眠ったら アルバムは持ってたけど、ライブを見たことが無かったので、見たいなーと思ってたら、ドイサイエンスが対バンってことで熊本まで見てきました。  なんというか、「バンド、かくありき」というか、全ての楽器の鳴りと、その合わさり方が尋常じゃなくて。しかも各人の楽器演奏レベルがかなり高く、やはり技術があるというのは「聞き手の集中力」に大きな影響を及ぼすので(お笑い芸人が「噛んだ」途端に聞き手がネタに集中出来なくなるアレ)、ライブ見ながらの「トリップしていく感じ」がとても凄かったです。  また、リーダーと呼ばれていたギターとボーカルの人の、ギターのテクニックが凄くて、「ギター、もしくは楽器がうまい人は何か高尚であるなー」とか思ってしまったわけで。こんなにも聞く人の感情を揺さぶることが出来るんだなーと。    今日はもう寝ようと思うので、このへんで。

眠れないまま朝を迎える

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+++ Playing Now +++ R.E.M. / UP R.E.M.解散のニュースが飛び込んできて、驚いて、その衝撃で眠れんくなって、PCの前に座って、ブログを前のプラットホームに戻そうかどうしようか考えておる。 でもデザインいろいろいじれるのいいな、とか思ってやっぱこっちを更新している。 でも前のところのアーカイブを少し覗くとけっこう懐かしかったりもする。んで思考傾向の変化とかも見れて面白い。だから結構アーカイブ残ってる前のやつに戻そうかと思ったり。そんな朝。 あーどうしよ。

ひっさびさ、ここ

 もっぱらツイッターばかりで、きちんとした文章などから遠ざかっているわけですが、今こうやって文章を書こうと思った瞬間に思いましたが、それは「詰めていくことが面倒」という感情。バラバラなまま、バラバラな文章で投下していくツイッター。バラバラなものを、整理整頓していって見やすくしていって、それを眺めながら書いていくのが文章、なのだなと気付いたり。まあツイッターしている人たちがみんな「バラバラなものをバラバラなままに」かどうかは知りませんけど。  でも今現在を流れている空気としてはやはり「バラバラなものをバラバラなままに」という空気なのかも知れません。自分がやっているせいも多分にあるけども、「ツイッター的」なもので世の中決定していっている気がする。やってない人には別のものが世の中を決定していると思っているんだろうけども。  たださ、ある事件が起こる。もちろんツイッター上で話題になる。ああしろ、こうしろと声高に叫ぶ。山火事のように広まっていく。翌日や翌々日、その通りになる。  そりゃ嬉しい部分もある。これぞ民主主義だぜ、とか。国民が何をわめいても叫んでも響かない、てことだって世の中見渡せばあるんだし。でも、民主主義、であるためには国民の一人一人の民度とか、一人一人のレベルみたいなものが大きく影響すると思うの。  欧州はデモが多いし、政府も割と国民の動向を伺うし、英国も失業手当とか充実してるし、なもんでここ日本でもデモが頻発しだし、おとなしい国民だった我らが声を上げる、というのもいいものだと思うが、一人一人の文化的レベルていうのは、そりゃ単純に比較することは無理だろうけど、どうなの?ってのも思う。  だいぶ前に「経済のことを考えるならば、国民全無能化を行ない、広告による煽動をしやすくするのが一番」みたいなことを書いたが、割と今それって成功してきてると思う。針の穴を探すような昨今のビジネスモデルでは、人間に我慢なんてこれっぽっちも要求しない。逆に無理矢理「気付かないうちに我慢してるようなことってないかな?」なんて探す始末。「あ、あれ我慢してたわ」となり、それを解消するための商品を買い求める。  こういったことを繰り返していくと当然ストレスに対する耐性がみるみるうちに無くなっていくわけで、その影響は完全に子どもに出始めている、というわけ。親がガキだから嫌われないために、もしくは周...

あー腹立つ

 まあ、腹立てても仕方ないんだけどさ、でも私的に村上春樹を攻撃されたら、「カチン」とくるわけで。でツイッターってのは割と共同のしゃべり場だったりするから、マイナスな発言は控えめにしてるのね、場が変になってしまう場合もあるし。  「非現実」な「夢想家」。ツイッターにも少し書いたけど、この2つのワードを出したってことは、「現実的」で「夢を見ない者」に対する挑戦状であるし、これは芸術、とりわけ音楽を愛する彼らしい表現の仕方だなと。  というのも音楽、特にロックやパンクなんかは敢えて体制側へのアンチの言葉を選び、刺激的な音に乗せて大衆へ運ばれ、人々の意識に入り込み、それに共感、感動した人自身を破壊(それが良い悪いに関わらず)してきたからだ。  村上春樹はそれを音楽でなく、「物語」に乗せて大衆に届けようとしている。そう、「物語」で。「演説」で届けようとは思っていないのである(たぶん。そのつもりならもう少しスピーチを練習した、、、失礼)。それを「村上春樹は遠い外国で呑気にジョギングをして過ごしている。彼はもはや日本の現実の中にはいない。表現者たるもの、現場へ足を運ばねばならない」というような声が上がっている。  だから彼は「演説」で表現しようとしているのではないのだ。国際賞を受賞し(受賞発表の時期を受賞者がどうやってコントロールできるのだろう)、その際スピーチは付き物、そして日本を代表する作家なのだから震災のことに触れないわけにはいかない。  つまり、彼は「今彼の語れることの範囲で語った」のだと思う。しかしそのスピーチの内容に関しては、どんなに「アンチ村上春樹的なもの」な人であろうとも、反論が出来ないほど完璧であったと思う。そこが彼の凄いところだと思う。「あげ足を取る」という言葉があるが、まず足があがっていないのである。出てくる反論と言えば、筋違いな「彼は現地へ行ってない」「外国で話さないでほしい」といったものばかりだ。 僕は、震災があったときから彼の発言を待っていた。阪神淡路大震災のときに、自分の故郷が破壊され、「神の子どもたち〜」という傷ついた人の心をそっとすくいとるような物語を編み上げた。そんなふうに地震、震災について深く考察したことのある人間が外国で悠々とジョギングをしているはずがないではないか。集まった募金の額が語るように、日々現地に行ってボランティアを行ってい...